洋楽で驚いた時代の話

かつて洋楽には「驚き」があった…

#2「驚き」の無くなった理由は? Part2

それでは、「驚き」の無くなった要因の二つめ。

 

②バンドが減った。

1970年代は、やはり1960年代を席巻し1970年に解散したビートルズがポピュラー音楽の世界において、色々な意味で基本となり、多くのロックバンドの目標となった。

 

出発点が作曲も演奏もでき、歌も歌えるビートルズであったため、それに追いつき追い越せとばかり、自分たちで曲を作り、自分たちで演奏をするというスタイルのグループが増えた。

つまりハードルが上がっていたのだ。

 

その中で、各グループが演奏技術を競い、ハーモニーを競い、ヴォーカルを磨いた。

また、たとえソロであっても自分のバンドを持っているアーティストが増えた。

 

それぞれのバンドにはしっかりとしたバンドアンサンブルがあって、それぞれ個性的な演奏を披露した。

そういった中で、時には驚くべき演奏や楽曲が生まれていった。

 

それは、今のコンピュータを使った作曲や演奏に比べれば、かなり手間暇のかかる作業だったに違いないが、それだけに個性の違いがはっきりと出たし、苦労した中で生み出された楽曲の凄みというのは違った。

 

けっきょくは、あのドラムの凄い音やエレクトリックギターのエモーショナルな響きはコンピュータには再現できないということだ。

#1 「驚き」の無くなった理由は? Part1

前回は、私の主観もある程度認めながらも、近年の洋楽にはかつての「驚き」が無くなってきている事について述べてみた。

 

いよいよ第1回の今回は、その私が体験した洋楽「驚き」」の時代の話を進めてゆくにあたって、まずは、なぜ近年の洋楽に「驚き」が無くなってきてしまったのかについて少し考察してみようと思う。

 

まず、前提として、ここで言う「近年の洋楽」というのは、要するにビルボードなどのヒットチャートに上がってくるようなヒット曲の事をいう。

そういったチャートとは無関係な曲の中には、まだまだ良質で「驚き」に満ちたものがあると信じたいのだが、少なくとも今ヒットチャートに上がってくるようなメインストリームの洋楽曲には、ひと昔前のような「驚き」に満ちた曲は減ってしまったのではないか、という話だ。

それでは、私なりに考えたその要因を挙げてゆこう。

 

まず、一番目の大きな要因。

 

①コンピュータによる曲作り

この意見に異論を唱える人は多いかもしれない。しかし私はあえてこれを第一の要因としたい。

 

人類の進化、テクノロジーの進化は止められないし、戻る事もできない。

それを使わないわけにいかないし、また使ってしかるべきだ。

それを否定する事はできないし、否定するつもりもない。

それはポピュラー音楽の世界であっても同じだ。

 

たしかに新しいテクノロジーを導入し創造された音楽には新鮮な「驚き」を感じさせてくれる楽曲もあった。

しかし、ここで音楽という、この「特別なもの」、人間の感情、心にダイレクトに響く、この「不思議なるもの」にテクノロジーを導入した場合、その意味合いは、ほかのの電化製品などといった「物としてあるもの」に導入した場合とは大きく効果が違ってくる。

 

音楽というものは、電化製品のような物体としてあるものとは違って、いくらテクノロジーが進化しようと、それだけで過去の名曲、名作と呼ばれるものを必ず凌駕するとは限らない。

 

これは絵画にも同じことが言えて、いくら性能の良くなったコンピュータを駆使したCGで絵画を描いても、ルノワールゴッホの絵には勝てないだろう。

 

それと同じで、音楽はいくらProToolがバージョンアップしても、ベートーヴェンの曲やビートルズの曲以上の曲を創ることはできない。

 

それは音楽というものが、大量消費財でありながらも芸術、アートの側面も兼ねているからに違いない。

音楽は名作でも陳腐な作品でも1枚2,400円といった均一な値段で大衆が買うことのできる芸術品でもあるのだ。

 

ポピュラー音楽の世界では、60年代頃から、エレクトリックギターの進化やシンセサイザーの登場によって、次々と新しい表現、新しい演奏が登場してくるようになった。

ギターではジミ・ヘンドリックスシンセサイザーではスティーヴィー・ワンダーがその代表的な存在と言えよう。

そして、その驚異的な演奏は世界中の人々を驚かせた。

 

しかし、その後に登場してきたProToolに代表されるコンピュータソフトのプログラミングによる自動演奏には、初期こそ人々をあっと驚かせたものの、この時点で音楽の魂や大事なものが失われてしまったように私は感じている。

 

たしかにそうした自動演奏登場初期は、そのサウンドや演奏に驚くことも多かった。

今まで聴いた事のないような音、サンプリングを使った演奏、人間では不可能なスピードのドラミングやホーンセクションなどなど。

 

そうして作られた音、曲というのは、登場した際には、人々の耳を驚かせたものの、時が経ってゆくにつれて、大部分の音、曲が陳腐に聴こえてくるようになっているはずだ。

 

この人間の感性の深いところでの感じ方が、昔から人間が使ってきた楽器の音を聴いた時との大きな違いになっている。

なぜならピアノやバイオリンの音は、何百年、時を経ても陳腐な響きになることは無い。

 

やはり人間の手による生演奏とコンピュータによる自動演奏では明らかに、聴く者の心、魂を震わせる感動が違う。

 

たしかに最近のソフトの音は生音と区別がつかないくらいのクオリティになった。

しかし、それでもすべてのインストをコンピュータで作った曲と、生演奏とコンピュータが混じった曲では明らかに雰囲気が違うのが分かる。

 

そもそも、コンピュータで生音に近い音を作るということ自体、本末転倒の話だと私は思ってしまうのだが、けっきょくは技術が進化すれば、人間の演奏技術へと向かうということなのか。

 

そう考えると、そういった技術がまだ初期段階で、エレキやシンセサイザーで新しい音が出るようになったものの、演奏自体は人間が手で演奏していた頃というのが、今となってみれば、最もいい演奏が多かったとも言える。

 

それは、出てくる音はコンピュータ発信とはいえ、まだ楽器演奏自体は人間の手でされていたのだから、その演奏者の演奏表現の余地があった。

ところが、その演奏までもがコンピータがするようになった段階で、ポピュラー音楽は進化から逆に退化へ向かってしまったとは考えられないか。まるでDEVOが予測したように。

 

いちばんの問題は、自動演奏された曲というのは、まず、曲を聴いていても、苦労して演奏をしてる、という感じが伝わってこない。

当たり前だ。人間が演奏してないのだから。

これでは演奏面での感動は得られにくい。

 

声や歌詞やダンスなど別の部分に感動の中心が片寄らざるを得ない。

 

演奏に感動することが無くなると、この時点で、曲に「驚く」という機会がだいぶ少なくなってしまう。

 

そのへんを感じ取っているアーティストにアリシア・キーズという人がいる、

この人は最新のコンピュータサウンドの音が気に入らず、わざわざ古いシンセサイザーを探してきて曲に使ったりしている。

ProToolの音があまりにクリアで綺麗すぎて、何かが足りないと思ったに違いない。

 

やはりここでたしかに言える事は、人間の手による演奏で得られる感動をコンピュータの自動演奏が再現することは不可能だという事だ。

はじめに

思えばずいぶん長い年月に渡って洋楽を聴いてきた。 

 

いちばん多感な時期、ちょうど高校生の頃1617くらいの時に私は本格的に洋楽を聴き始めた。

だいたいもう40年くらいは聴き続けてきたわけだ。

その頃のアメリカは空前のディスコブームの真っ只中。1970年代も終わろうとしていた。

そしてそれはアメリカの音楽シーンが大きな変化を迎えていた時期でもあった。

 

こういった時代の変わり目というのは名曲が生まれることが多い。19691970年がそうであったように。

事実この19761979年頃というのは、ほんとうに後世に残るような名曲が多かったし、良質な曲が多かった。

ビートルズ解散から10年で、まさにロックが、ある種の完成期・円熟期を迎えていた時代と言える。

 

そして何より、この頃の洋楽というのは、今よりもずっと「驚き」に満ちていた。

 

今、振り返ってみても、私の個人的な感情抜きにしても、この時期の洋楽というのは明らかに今とは比較にならないほど数々の「驚き」に満ちたものが多かった。

いや、正確には「この時代くらいまでの洋楽」に、今とは比較にならないほどの「驚き」があったと言った方がいいのかもしれない。

 

ここで言いたいのは、人間、歳をとるとどうしても自分の若かった頃がいちばんいい時代だったと思いたがるものだ。

また、知らないうちに感受性が鈍っているため、そう感じるのだという人もいる。

私にも多少そういった面はあるのかもしれない。

しかし、洋楽を今の時代までずっと聴き続けてきた私の実感として、やはり、この時代、70年代終盤の洋楽というのは、今の時代の洋楽よりは唖然としてしまうような「驚き」に満ちていたと感じている。

 

また、さらに想像するに、その70年代よりももっと前の時代には、もっと大きな「驚き」の洋楽の時代、瞬間があったに違いないとも思っている。

 

それは言うまでもなく、エルヴィス・プレスリービートルズの登場の時代だ。

 

残念ながら私はその時に居合わせていないので、その時の「驚き」は想像に任せるしかないが、当時の音楽シーンを考えてみれば、その「驚き」の度合いは、さらに70年代の比ではなかったに違いない。

 

このブログでは、そういった、洋楽が真の「驚き」をもって迎えられていた時代の話を、「驚き」という言葉をキーワードに、私の音楽経験の中から限定的ではあるが綴ってゆきたいと思う。

 

長く洋楽を聴いてきた。

苦しい時も楽しい時も洋楽と共に歩んできた自分の人生を振り返る意味でも、今、人生の一区切りとして、語ってゆきたい。