洋楽で驚いた時代の話

かつて洋楽には「驚き」があった…

#8「ボブ・ディランのローリング・サンダー・レビュー」〜こんなテキトーな感じでいいの? でもかっこよかった!(1976年)

今年の6月にNetflixで、マーティン・スコセッシが手掛ける「ローリング・サンダー・レヴュー : ア・ボブ・ディラン・ストーリー・バイ・マーティン・スコセッシ(原題)」という題名の、ボブ・ディランの1975年から1976年に行われた「ローリング・サンダー・レビュー」ツアーのドキュメンタリー作品が放映されることが決定した。

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このツアーは数あるボブ・ディランのツアーの中でも、屈指の素晴らしさを誇るライブで、アルバムとしては1976年に、ライブの中から9曲を収録した「激しい雨(HARD RAIN)」が発売され、その後2002年になってようやくライブの完全版がブートレックシリーズ第5弾「ローリング・サンダー・レビュー」として正式発売されている。

激しい雨(紙ジャケット仕様)

激しい雨(紙ジャケット仕様)

 

 

ローリング・サンダー・レヴュー (通常盤)

ローリング・サンダー・レヴュー (通常盤)

 

  

しかし、そのライブの映像となると、「レナルド&クララ」という映画作品でライブシーンが出てはくるようではあるが(私は未だに観れていない)、純粋なるライブ映像としては、なぜか色々な国のテレビ局で数回ほど放映されたにすぎず、DVDのような正式な映像作品としてはいまだに発売がされていない。

 

調べてみると日本では1976年にテレビ放映がされていて、私もたしか東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の深夜帯だったろうか、じっくりと観たのを記憶している。

 


Hard Rain, Bob Dylan Rolling Thunder Revue Fort Collins CO 1976

私も、当時の多くの日本人の洋楽ファンと同様、この映像で初めて伝説の人物ボブ・ディランの歌う姿、ライブでの姿を目撃した。

まだ当時の私はそれほど洋楽をたくさん聴いていたわけではなく、ボブ・ディランに至っては「風に吹かれて」や「時代は変わる」といった代表曲くらいしか知らなかった。

中学生だった私は、それまで日本の歌番組くらいしか歌のステージというものは観たことがなかったので、このコンサート映像はやはり衝撃的なものではあった。

 

日本の歌謡曲が、歌番組などで歌手が歌う時は、必ずアレンジもほぼレコードと同じように演奏され、歌に合わせて振り付けまで決まっていたのに対し、ディランのコンサートは、あまりに自由にテキトーにやっているように見えた。

アメリカ(欧米)の歌手のコンサートというのは、みんなこういうものなのか、とまず驚いた。

実際には欧米でも、特に黒人グループなど振り付けありで歌うグループもたくさんいるので、多種多様であったのだが。

しかし、日本のように何もかも決められた中で歌う歌手とはずいぶん違うなぁと思ったものだ。

 

特に私が印象に残っていたのは、ディランが歌っている時に後ろで、演奏してない奴がぶらぶら歩いてるように見えるシーン。

日本の歌番組では、歌っている歌手の後ろに、演奏もしてない奴がぶらぶらしてるところが映ってる、なんて事はまず無い。

まあ、テレビ収録と野外ライブとの違いはあるにせよ、それにしてもステージの後方にいる人達が自由にしているなぁと思った。

 

あと、バックミュージシャンが演奏しながらタバコ吸っているところも、この時初めて見て衝撃を受けた。

 

ディランの歌っている時の動きも新鮮だった。

ちょっと歌っては、間奏になるとマイクから離れて後ろを向いてしまう。なんでこんなに後ろさがっちゃうんだろう、と思った。

 

それにしても、どうしてこのライブでは、ほとんどのミュージシャンが頭にターバンのようなものを巻いていたのだろう。

それも今だによく分からない。何か意味があったのだろうか。

 

意味が分からないといえば、この映像のライブではそうしてはいないが、このツアーの時の報道写真のディランは大抵、顔を白塗りにしている。あれもまったく意味が分からなかった。


Bob Dylan - Mozambique (Rolling Thunder Rehearsal, 1976)

 

なんにせよ、こういったように私はこの映像を見て何よりも感じたことは、その「自由」さだった。

演奏もテキトーにギター弾いてるように見えて、ちゃんとキメるとこはキメるし、その微妙なニュアンス、センスが、やっぱりぜんぜん日本の歌謡曲とはレベルが違うなあと思った。

これこそが本物のライブ演奏、プロのライブだと思った。

 

それから、この映像で気になったのは、なんといっても後半に出てくる美貌のヴァイオリニストのスカーレット・リヴェラ

この名前も綺麗で忘れられないのだが、このむさい男達のバンドの中で、そのなんとも言えない不思議な雰囲気が、ひときわ美しく輝いて見えた。


Bob Dylan Live - Hurricane TV 1975

 

全体的な印象としては、まさに「HARD RAIN」の名の通り、このツアーでのライブは力強く荒々しいスピード感のある曲が多く、ディランに「フォークの人」というイメージしか持っていない人が観たらかなり驚くほどにロックしているというはずだ。

もちろんアコースティックギターだけのフォークの曲も演奏されるが、激しくディランがシャウトするようなロックの曲も多く、かといって、ビートルズローリング・ストーンズのようなロックとも違う独特のフォークロックなところがやっぱり一筋縄にはいかない。

#7「ロッド・スチュワートを初めて見た!」〜ユニセフコンサートでのHな体の動き(1979年)


Rod Stewart - Da Ya pensa que eu sou Sexy 1979 'UNICEF Concert'(HQ Audio)

1979年、当時のスーパースターばかりを集めて「ミュージック・フォー・ユニセフ・コンサート」というチャリティーコンサートがニューヨークの国連本部会議場で開かれた。

 

参加したのは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのビー・ジーズに、EW&FABBAアンディ・ギブ、ドナ・サマーロッド・スチュワートオリヴィア・ニュートン・ジョンという夢のように豪華な顔ぶれだった。

 

そのコンサートの模様は日本でも民放のテレビ局で放送がされ、家庭用のビデオデッキなど無い時代だったゆえ、私はワクワクしながら、その放送時間が来るのを待ったのを記憶している。

 

しかし、その民放放送(たしかフジテレビ)の番組の作りがいかにも日本的で、ほんとうの洋楽好きを無視したような最悪なものだったために、観ててすごく腹が立ったことを覚えている。

 

ただコンサートをそのまま放送すればいいのに、わざわざ一般のファン(ほとんど若い女性)をテレビ局のスタジオに集めて、MCの桑田佳祐と一緒に映像を観るというスタイルだった。

 

出場したアーティストが一曲歌うごとに、スタジオに画面が切り替わり、そのたびに桑田が「どうでしたかー!」とか「次はアンディ・ギブでーす!」なんて言ってからまたコンサートの画面に戻るという、なんとも白ける構成だったのだ。

おまけに「~のファンはいるかー!」とか桑田が煽って、もったいぶったりして時間を引っ張ったりするところもドッチラケだった。CMも多かったような気がする。

そんなブツ切りのライブなど洋楽ファンが観たいわけがないではないか。

 

まあWOWOWさえも無い時代だったので、そんな洋楽がよく分かっていないような民放テレビ局のおじさんスタッフが作った番組だったのだろう。

 

そんな話はさておき、その歴史的なコンサートの方は、ほんとうに次々とスーパースターが登場しては新曲を披露してくれるという夢のようなコンサートであった。

このコンサートで披露した曲の印税はすべてユニセフに寄付されチャリティーに使用されることになっていた(ただし全部の曲というわけではない)のだが、このコンサートで披露したビー・ジーズの「失われた愛の世界」とロッド・スチュワート「アイム・セクシー」の2曲は、その後見事に全米No.1に輝いている。

 

民放の放送の仕方がひどかったとはいえ、この時代あまり洋楽のライブをこれだけ長い時間放送する番組は珍しかったので、私はかなり興奮しながら視聴したのを覚えている。

 

今となっては出演したアーティストのうちの何組か(ビー・ジーズ、アバなど)はリップシンク(口パク)だったという事を知ってがっかりもしたが、放送を観ている時は、ほんとうに海外のアーティストのレベルの高さ、歌のうまさには驚いたものだ。

 

ただ、このコンサートの時期というのはちょうどディスコブーム真っ只中の時代だったので、私はビー・ジーズドナ・サマーは当然ディスコソングを歌ってくれると思っていたのに、この両者は共にバラード曲しか歌わなかったのには少しがっかりしたのも覚えている。

 

そんな中、一人不思議なディスコソングを歌ったのがロッド・スチュワートだった。

 

原題「Da Ya Think I'm Sexy」原題邦題「アイム・セクシー」というこの歌は、この子供の為のチャリティー・コンサートにはふさわしくない、などと後になって言っている者がいたようだが、それは全くもってナンセンスな意見だ。

 

だいたいどんな芸術、芸能、音楽であっても真の意味を探ってゆけば「SEXY」「SEX」に行き着いてるものというのは多いもので、そういうものを全部排除なんかしたら、ポピュラーミュージックでチャリティーなんてできない、という事になる。

それに子供のチャリティーに合った歌だけにしろというのなら童謡コンサートでもしたらいいのであって、ポップアーティストを集めているのだから、そういう事を言う輩は何も分かっていない。

 

そういえば、これと似たような事が他のチャリティーコンサートにもあったのを覚えている。

それは1985年に行われた「ライブエイド」(最近クイーンの映画でも話題になった。)という大規模なチャリティーコンサートだった。

このライブの大トリに出てきたのがポール・マッカートニー

そこでポールが歌ったのはビートルズの名曲「レット・イット・ビー」だった。

すると後日になって、なんと歌詞の内容が「なすがままに任せなさい」と言った意味なので、この変革を求める意味を含むチャリティーにふさわしくない、などと言った大バカジャーナリストがいたのだ。

ポピュラーミュージックというものをまったく理解していない固い頭の人間というのはいつの時代にも存在するものだ。

 

さて、そんな話はさておき、時代はビデオもYouTubeも無い1979年だ。

このコンサートのテレビ放送の時まで私は動くロッド・スチュワートというものを見たことがなかった。

雑誌などで彼の写真を見ていた私のイメージとしては、野生的で男っぽいロックンローラーのイメージだった。

しかし、このチャリティーコンサートで初めて見るロッド・スチュワートの姿は、想像していたものとはずいぶん違ったものであった。

 

また、その姿以前にまず感じたのは、その曲の意外性であった。

ロックを想像していたので、意外にもソフトなその曲調といい、完全なディスコ調のリズムといい、あれっ、と思ったのを覚えている。

あれ?ロッド・スチュワートってこんな感じなんだぁ、と思った。

ちっともロックンロールって感じではないし、なんか伴奏も長いし、ギターソロとかも無いし、なんか不思議な曲だなぁ~、という感じだった。

 

そして、ロッドは口パクではなかったので、何かラジオで聴く感じと声も違って聞こえた。

正直これ、うまく歌えてるのかなぁ、という感じもしたのを覚えている。

 

そして、何よりその容姿だ。

この初めて見るロッド・スチュワートの姿には、当時17歳だった私は大きな衝撃を受けたのだった。

それはまるで宇宙人のような違う星から来た生き物を初めて見るような驚きだった。

 

最近あまり言わなくなったが、当時「パイナップルヘアー」と呼ばれた美しく金色に輝やく髪。

黒いテカテカと光るタイツの足とお尻はムチムチとボリュームがあって、まるで女性のよう。

顔も、今まで私が見たことのないような高い鼻だった。

しゃがれた声も不思議だった。

 

といった様に、この人はいったいなんなんだろう、と思うくらい不思議な雰囲気がロッドにはあった。

この人は、ほんとに男なのか女なのか。地球人なのか宇宙人なのか。どうしてあんな声をしてるのか。

すべてが自分にとっては初めて見る不思議な人間であった。

 

そして、さらに惹きつけられたのは、その歌っている時のロッドのなんとも言えないHっぽい体の動きだった。

まるで女の子のようななよなよとした浮遊感のある動きで、なんか凄いHワイセツなものを見ている気分がしてしまった。

子供の自分が見てはいけないようなものに思えたのだ。

 

今こうして映像を観てみると、そんなに驚くほどHな感じはしないし、歌もうまい。演奏はやけにレコードと同じ音なので、レコードの音源に取り替えているかもしれない。

それにしても当時は衝撃だった。


Rod Stewart Tokyo, Japan, March 1979

こちらの映像は、チケットが凄い競争率になった日本初公演の様子。

やっぱりこの頃のロッド、ほんとにかっこよかった。

 

 

#6「ビー・ジーズのファルセット・ヴォイス」〜世界をあっと言わせた。私はえっ?と驚いた。(1978年)


Bee Gees Stayin Alive Extended Remaster HD


Saturday Night Fever - Night Fever (Bee Gees)

1978年に公開(日本)された「サタデー・ナイト・フィーバー」という映画は世界的な大ヒットとなり、日本ではなぜか「フィーバー」という言葉がやたらに色々なところで使われるようになる流行語となった。ちなみにパチンコのフィーバーというのは、この流行から始まっている。

 

この映画の魅力はなんといっても当時無名の新人だった俳優ジョン・トラヴォルタのダンスと、全編に流れるギブ三兄弟のビー・ジーズのディスコ・ミュージックだ。

ビー・ジーズは1963年デビューのバリー・ギブ、モーリス・ギブ、ロビン・ギブのギブ三兄弟のヴォーカルグループ。

この映画でビー・ジーズがファルセット・ヴォイス(裏声)を駆使して歌う「ステイン・アライブ」と「恋のナイト・フィーバー」は共に全米No.1の大ヒットとなり、それらを収録したサウンドトラックアルバムは全米で241位、サウンドトラック盤としては当時史上最高の4,000万枚(!)という驚異的な売り上げを記録した。

 

私にとっても、この「ステイン・アライブ」、「恋のナイト・フィーバー」の二曲というのは、当時まったく今まで聴いたことのないような驚きのサウンドに感じたのを覚えている。

 

私は当時まだ、前々回のブログに記したように、洋楽をちょうど聴き始めたくらいの状態だったので、この二曲に関しては、初め大きな2つの勘違いをしていた。

 

それは、①女性ヴォーカルだと思っていた。②二曲あると思わなかった。(二曲の区別がつかず、一曲だと思っていた)

 

特に①のこれらの曲が男性が歌っていたという点がまず、とにかく驚いた

今となってみれば、当時でもすでにスタイリスティックス、フォーシーズンズ、アース・ウィンド&ファイア等、ファルセット・ヴォイスで歌っていたグループはいた事が分かるが、当時の私にとっては、これもまたまったく初めて耳にする発声法だった。

そしてまず、この声で歌う意味が分からなかったのだ。

 

②の二曲の区別がつかなかった点も今となっては、ぜんぜん違う曲と分かるが、その当時はまったく区別がつかなかったものだ。

 

そして、もう一つ驚いたことがあった。

それは、ビー・ジーズはこの「サタデー・ナイト・フィーバー」以前に、日本で一度大ブームを起こした時期があったということだ。

それはやはり映画のサントラで、「小さな恋のメロディー」という1971年の映画の主題歌で、特に日本では大ヒットを記録している。ただし本国イギリスとアメリカではまったくヒットしなかった。

 

当時、特に日本の若い女性に大人気で、私の姉もドーナツ盤(シングル盤)を買って、よく家で聴いていたのを覚えている。

しかし、その時のビー・ジーズの曲は、ソフトでとてもゆっくりとしたテンポのバラード曲だった。

そのため、この「サタデー・ナイト・フィーバー」の曲を歌っているビー・ジーズとこの「小さな恋のメロディー」のビー・ジーズが、私の頭の中ではまったく一致しなかった

というか、私はしばらくは別のグループだろうと思っていたのだ。

たしかにグループ名は同じだが、きっと別のグループだろうと思い込んでいたのだ。

そのくらいサウンドも声もまったく違い、まるで別のグループが歌っているような変貌ぶりだった。

 

しかし、この「サタデー・ナイト・フィーバー」の異常なまでの大ヒットは、ビー・ジーズ三兄弟の関係を微妙なものにしてしまったという事が、後の彼らのインタビュー記事などから明らかになっている。

特に、グループで曲によってリード・ヴォーカルを分け合っていた長男のバリーと弟ロビンの二人の関係はこの大ヒットの時期から少し微妙になったようだ。

なぜなら、この「サタデー・ナイト・フィーバー」の時期に大ヒットしている曲は、すべて長男バリーのファルセット・ヴォイスを中心とした楽曲だけだからだ。

翌年、このビー・ジーズの大ブームの波に乗って発売されたアルバム「失われた愛の世界」に至っては、全編バリーのファルセット・ヴォイスをメインにした楽曲のみとなり、ロビンのヴォーカルをメインにした楽曲は完全に姿を消した。

 

しかし結果、アルバムはまた驚異的な大ヒット。シングルも2曲連続で全米No.1となった。

ロビンのビブラートのかかったヴォーカルは、この時期ほぼ無視された。

きっとその方が、この大ヒットを維持できるから、そうしたに違いない。

それがレコード会社の意向かグループの意向かは定かではないが、大ヒット、大ブームを維持させるためには、それが最善の策だったとも言える。

 

こうしてビー・ジーズは、とにかくバリーのファルセットをメインにしたディスコ調の曲さえ出せば、ほぼ百発百中売れるようなスーパーグループとなったのだ。

 

私は、このアルバム「失われた愛の世界」を聴いて、ほんとうにその内容の素晴らしさに感動してしまい、それこそ擦り切れるほど何回も聴いた。

それゆえビー・ジーズの次のアルバムというのが楽しみで楽しみでならなかった。

 

この「サタデー・ナイト・フィーバー」の後、ビー・ジーズピーター・フランプトンらと主演したミュージカル映画「サージェント・ペッパー」を発表したが、映画は大コケ、曲も全編ビートルズのカヴァーだったので、ビー・ジーズのオリジナル作品はお預けとなり、またずいぶんと待たされたという感じになった。

 

ただ、今資料を見てみると1979年の「失われた愛の世界」から3年しか経っていないので、そんなには長くなかったことに気づくが、とにかく1982年、全世界が待ちに待った注目のビー・ジーズの新作は発表されたのだ。

それが「リヴィング・アイズ」というアルバムだった。

このアルバムでは、ロビンのメインヴォーカルの曲が何曲か復活していて、曲調もディスコ色でない曲が多く占められていた。

そして案の定、このアルバムは大コケにコケた。

期待されたファースト・シングル「愛はトライアングル」も全米1位はおろか30位がやっと。

 

私も期待して、このシングル盤を買ったが、もうビー・ジーズの大ファンになっていた私でも、残念ながら何度聴いてみても、いい曲に思えなかった。

なんで、こんな曲になっちゃうの?というくらい、はっきり言ってひどい曲だと思った。

 

ただ救いなのは、今、アルバムを通して聴いてみると、何曲かけっこう良い曲もあると感じることだ。

ロビンのヴォーカル曲にも良いものがある。

ただ確かに、大ヒットはしないだろうという事はよく分かる。

きっと、長男バリーの優しさ、兄弟愛から、このアルバムはこうなったのだろう、という事は今になってみると分かるのだ。

 

この「リヴィング・アイズ」の大失速で、ビー・ジーズはスーパーグループから、また中堅のグループへと戻ってしまったが、きっとそれもグループが兄弟である事ゆえのことだったのだ。

 

しかし、ここで私が思うのは、つくづくポピュラー・ミュージックのヒットの要因というのは紙一重なものだなあ、ということ。

 

そして、その要因のひとつが、リードヴォーカルにあるということ。

これは、やっぱりなんだかんだ言っても、重要な要因

私が今まで聴いてきた洋楽のグループでも、リード・ヴォーカルが変わっただけで、大ブレイクしたり、大失速したりする例を何度か見てきた。

 

声というのものは、ほんとうに不思議で、人間が惹きつけられる声と、そうでない声というのは必ずある。

それは美声だからといって惹きつけられるとも限らず、その逆に一聴して悪声と思えるようなリード・ヴォーカルのグループが大人気になる、という事も多い。

そこには法則があるようで無い。

また、時代によっても、この人の声が好かれる時代と好かれない時代などもあるようで、人間の感覚、聴覚、というものは不思議なものだ。