洋楽で驚いた時代の話

かつて洋楽には「驚き」があった…

#1 「驚き」の無くなった理由は? Part1

前回は、私の主観もある程度認めながらも、近年の洋楽にはかつての「驚き」が無くなってきている事について述べてみた。

 

いよいよ第1回の今回は、その私が体験した洋楽「驚き」」の時代の話を進めてゆくにあたって、まずは、なぜ近年の洋楽に「驚き」が無くなってきてしまったのかについて少し考察してみようと思う。

 

まず、前提として、ここで言う「近年の洋楽」というのは、要するにビルボードなどのヒットチャートに上がってくるようなヒット曲の事をいう。

そういったチャートとは無関係な曲の中には、まだまだ良質で「驚き」に満ちたものがあると信じたいのだが、少なくとも今ヒットチャートに上がってくるようなメインストリームの洋楽曲には、ひと昔前のような「驚き」に満ちた曲は減ってしまったのではないか、という話だ。

それでは、私なりに考えたその要因を挙げてゆこう。

 

まず、一番目の大きな要因。

 

①コンピュータによる曲作り

この意見に異論を唱える人は多いかもしれない。しかし私はあえてこれを第一の要因としたい。

 

人類の進化、テクノロジーの進化は止められないし、戻る事もできない。

それを使わないわけにいかないし、また使ってしかるべきだ。

それを否定する事はできないし、否定するつもりもない。

それはポピュラー音楽の世界であっても同じだ。

 

たしかに新しいテクノロジーを導入し創造された音楽には新鮮な「驚き」を感じさせてくれる楽曲もあった。

しかし、ここで音楽という、この「特別なもの」、人間の感情、心にダイレクトに響く、この「不思議なるもの」にテクノロジーを導入した場合、その意味合いは、ほかのの電化製品などといった「物としてあるもの」に導入した場合とは大きく効果が違ってくる。

 

音楽というものは、電化製品のような物体としてあるものとは違って、いくらテクノロジーが進化しようと、それだけで過去の名曲、名作と呼ばれるものを必ず凌駕するとは限らない。

 

これは絵画にも同じことが言えて、いくら性能の良くなったコンピュータを駆使したCGで絵画を描いても、ルノワールゴッホの絵には勝てないだろう。

 

それと同じで、音楽はいくらProToolがバージョンアップしても、ベートーヴェンの曲やビートルズの曲以上の曲を創ることはできない。

 

それは音楽というものが、大量消費財でありながらも芸術、アートの側面も兼ねているからに違いない。

音楽は名作でも陳腐な作品でも1枚2,400円といった均一な値段で大衆が買うことのできる芸術品でもあるのだ。

 

ポピュラー音楽の世界では、60年代頃から、エレクトリックギターの進化やシンセサイザーの登場によって、次々と新しい表現、新しい演奏が登場してくるようになった。

ギターではジミ・ヘンドリックスシンセサイザーではスティーヴィー・ワンダーがその代表的な存在と言えよう。

そして、その驚異的な演奏は世界中の人々を驚かせた。

 

しかし、その後に登場してきたProToolに代表されるコンピュータソフトのプログラミングによる自動演奏には、初期こそ人々をあっと驚かせたものの、この時点で音楽の魂や大事なものが失われてしまったように私は感じている。

 

たしかにそうした自動演奏登場初期は、そのサウンドや演奏に驚くことも多かった。

今まで聴いた事のないような音、サンプリングを使った演奏、人間では不可能なスピードのドラミングやホーンセクションなどなど。

 

そうして作られた音、曲というのは、登場した際には、人々の耳を驚かせたものの、時が経ってゆくにつれて、大部分の音、曲が陳腐に聴こえてくるようになっているはずだ。

 

この人間の感性の深いところでの感じ方が、昔から人間が使ってきた楽器の音を聴いた時との大きな違いになっている。

なぜならピアノやバイオリンの音は、何百年、時を経ても陳腐な響きになることは無い。

 

やはり人間の手による生演奏とコンピュータによる自動演奏では明らかに、聴く者の心、魂を震わせる感動が違う。

 

たしかに最近のソフトの音は生音と区別がつかないくらいのクオリティになった。

しかし、それでもすべてのインストをコンピュータで作った曲と、生演奏とコンピュータが混じった曲では明らかに雰囲気が違うのが分かる。

 

そもそも、コンピュータで生音に近い音を作るということ自体、本末転倒の話だと私は思ってしまうのだが、けっきょくは技術が進化すれば、人間の演奏技術へと向かうということなのか。

 

そう考えると、そういった技術がまだ初期段階で、エレキやシンセサイザーで新しい音が出るようになったものの、演奏自体は人間が手で演奏していた頃というのが、今となってみれば、最もいい演奏が多かったとも言える。

 

それは、出てくる音はコンピュータ発信とはいえ、まだ楽器演奏自体は人間の手でされていたのだから、その演奏者の演奏表現の余地があった。

ところが、その演奏までもがコンピータがするようになった段階で、ポピュラー音楽は進化から逆に退化へ向かってしまったとは考えられないか。まるでDEVOが予測したように。

 

いちばんの問題は、自動演奏された曲というのは、まず、曲を聴いていても、苦労して演奏をしてる、という感じが伝わってこない。

当たり前だ。人間が演奏してないのだから。

これでは演奏面での感動は得られにくい。

 

声や歌詞やダンスなど別の部分に感動の中心が片寄らざるを得ない。

 

演奏に感動することが無くなると、この時点で、曲に「驚く」という機会がだいぶ少なくなってしまう。

 

そのへんを感じ取っているアーティストにアリシア・キーズという人がいる、

この人は最新のコンピュータサウンドの音が気に入らず、わざわざ古いシンセサイザーを探してきて曲に使ったりしている。

ProToolの音があまりにクリアで綺麗すぎて、何かが足りないと思ったに違いない。

 

やはりここでたしかに言える事は、人間の手による演奏で得られる感動をコンピュータの自動演奏が再現することは不可能だという事だ。